昭和46年06月30日 朝の御理解
御理解 第23節
「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
こう読ませて頂いただけでは、えらい簡単な御教えですけどね。なかなか深い筆舌に尽くせない深いものがあるように思います。なぜ神を恐れるようにすると仰る恐れるようにする。そこに確かに恐れるようなものがあるわけですね。髭を生やしたり怖い顔をして御座るわけではないのだけれども、これは信心が段々進んで参りますといよいよ信心の有難さというものは身にしんで参ります。身にしみ込んできますと同時に、神様は怖い方じゃなと言う事も分って来ます。
怖い方じゃなと分ってそれで、離れる様にしたのでは信心にならぬ。それも矢張り近付かせて頂かなければ信心にならんと仰る。だからこう聞かせて頂くだけで大変深いことだと思います。そんな神様といえば人を助けたいばっかりのお方であるなら、怖いところがなくてもよかりそうなものだけれども。むしろ信心の全然わからない人こそ、めくら蛇に怖じずと言う言があるようですね。
これはまあ私の形の上での流儀でございますが昔から、教会に出らして頂いたらもう必ず一番正面ここへ来てから御祈念をする。私と一緒に親教会に出られる方は、その一番良くわかられるでしょうが、私が霊人様の御挨拶なんかする時には、もう体を御結界の方に体半身上げてから御祈念いたします。御霊様の御写真がありますと出来るだけこう近付いて御祈念を致します。
お広前の隅の方からねぽんぽん柏手を打って拝む。それはいっぱいで座るところがなければ仕方ありません。又いろいろの思い出がありましてね、私の方の家内なんかいつもあのお広前の隅の方でいつも御祈念しております。これは私は何故とその私も聞いた事がないからわかりませんけど、まあ教会の家内というのは、いつも後祈念ということを言われます。先生が一生懸命信者のことを願われる。
そするとそこの奥さんはその後から御祈念をするといつも言われます。そう言う様なものが段々身に付いとるとじゃなかろうかと思います。ね、尊いことです。皆さんの願いを先生が御神前に持って行かれる。その信者さんの後一番最後の所から、それを後から祈念を送る。前からも後からも、祈念を送ると言う様な事になってくる。そういう意味のこともあります。
けれども神様には近寄るように形の上にはですよ。ですからそれをいつも願いとしとります。皆さん御承知のように、御本部参拝なんか致しますとあの沢山な中に私はどうでも教祖の神様の奥城の前に出る時にはもう、奥城を前にして真正面の前にして拝まなければ何か気が済まんような気がする。だからいつもそれは願いにしてある。ですから私が参りますと、だぁっと今迄御祈念しよった方達でも散ってしまいますでしょう。あれは私が願っているからです。
どんなに人が後の方から拝んでも良いわけ、横からも右からも左からも、後ろからもあーして奥城の周囲を取りまわして御祈念があってますね。それでも良いのです。決して後から拝んだからどうちゅう事はないのですけど、それは私の信心の一つの感覚とでも申しましょうか、これはもう昔からどうでも私に正面の座を与えて頂きたいそこで御危難させて頂きたい、そういう願いを持ってますから神様はそれを聞いて下さる。
それは神に近寄るようにこれは形の上ですけども、近寄る様にしておる、ま、神様に打ち向かう姿であります。皆さんも早く参って見えたら遠慮することは何もいりはしません。一番正面に座って御祈念をなさるような習慣をつけることは、神と仲良うするきっかけを作ることになります。神に近づくいわば形の上においての事ですけれども、近づかせて頂く何かがそこにあります。
なぜ神様に近づかねばならないかと申しますとね、不思議に神様を頂いておりますと、神様を身近に感ずる。その身近に感ずるということがおかげなんです。神様自体は少しも変わられる筈はありません。近くから拝んでも遠くから拝んでも変わられる筈はありません。例えばこの掌を神様だとするとね、皆さんがそこから拝んでおられる。これだけのものですから見えますけどお広前の隅っこから見てご覧なさい。
この掌が段々ぼんやりと見えてきたり、小さく見えたり、もっと遠くなると見えなくなってしまいます。神様に近づかなければならないという理由はそこにある訳です。もう神様のことは忘れはしません。もうおかげ頂いとる事だけは忘れはしません。御無礼ばっかりしましてからと云うけどね、その御無礼ばっかりしとる間に成程神様はいつも変わりござらん。成程神様のことは忘れておらん。神様のことはいつも有難いと思うとるか知れませんけれども。
段々遠のいて参っておりますと神様は少なくなりなさるのではなくして、自分が神様を小さく薄くしてしまう。所謂神様を身近に感じられなくなってしまう。それが怖いのです。私は今朝方こんなお夢を頂いた。物凄い夢を。えらい爆弾が爆発するのかどんどん致しますから、ちょっと外を眺めて見ましたところが、このお広前からこのへんに辺るところが火事が焼けよります。
そしてその爆弾がどんどん投下されておるその、その炸裂する音が聞こえるのです。それが熊本県中だというのですね。それが夢ですね。その爆弾の炸裂する音が物凄く聞こえる。それに此処に参拝してくる人の中に熊本の人が多いらしくてですね、あぁよかった今日の大祓にお参りしとった。家族中でお参りしとったけん、おかげで無事で済んだと言うておる人、あぁ私達が居らんで家の者はどんなにしよるじゃろうかと心配をしよる人、まあそういう熊本の人達が大変。
あぁおかげ頂いたという人、後はどげんなっとるじゃろうかと家は焼けてしもうてと云うておる人と言う様な夢でした。どげな事であろうかと思うた。熊本と言う事はどういう事であろうか。熊というのは、めぐりの事だと頂いたことがあります。苦しいまと例えば字に書いてみると、そのめぐりを積んであるその基、めぐりの元いわゆるめぐりの元とは難儀の元。お互いがどうぞおかげ頂かして下さい。おかげ頂かして下さいと、段々神様に近寄る信心をさせてもろうて、繁々とお参りが出来るようになる。
これは二代金光様の四神様の御教えの中にありますがね、氏子がおかげを授けて下されいというから、神が本気になってめぐりのお取り払いにかかると氏子がもう神様その位でようございますというて、それを押し返そうとするという意味のことを教えておられます。どうぞ億万長者にならせて下さいというとっても億万の借金があるならば、いつまでたっても億万長者にはなれません。もし億万の借金があるならば、先ずその億万の借金払いがなされてから、始めて貯め上げられていく訳ですからね。
どうぞおかげを頂かせて下さいと願うから、神様がそこで信心も少しわかった、神に近づいて来た。神様の働きも段々わかって来た。そこでめぐりの取り払いに神がかかると怖がると云うわけです。今日は神を恐れるという意味がわかりますね。これはしかし井戸は清水になるまで、心から根からのおかげを頂くために、なら私ども二十年前のことを思うて見てまあこれは人も、自他ともに許していた、私がおかげ頂かん筈はないと思うくらいな、自分ながらもいわゆる熱烈な信心させて頂いた。
人も大坪さんあんたがおかげを頂かんなら、おかげを頂く人はありませんよというて頂く程の信心をさせてもろうた。さあところが起きてくる事が次々と難儀な事がそれこそ一緒に起こってくるかと思うくらいに続きましたね。信心するから悪いことが起こって来るのじゃないのですよ。それは当然起ってくるものですけれどそれをね、神様のおかげと思わして頂ける程しの働きも持ってあったと言う事です。だから私はいろんな難儀に直面するたびに神様に近づいたと云えます。
弟が戦死の公報を受けましてから、それから間もなく本当に間もなくから私は御本部へ月参りを始めたのです。親先生はその当時月参りをなさっておった。難儀な事が起ってきた。そしてそこからかえって神様の懐の中へ飛び込んでいくような信心が出来た。この辺のところが信心の一番大事なところですよね。こがしこ信心するのにこげな難儀な事が起るなら、もう神様の信心も程々にしとかにゃと言う事になったら、又はそれが境に信心をぴたっと止めてしまうと云うような例が沢山あります。
すっきりしたおかげにならない筈です。ですからそういう様な時に、神様を恐れるような事をしてはならないというのです。何もないのじゃない矢張り何かがある。信心をさせて頂いておればです。本当にこう例えば災難に遭いましても難儀に遭いましてもね、あぁ神様のおかげだなぁと感じにゃおられんものを感じるのです。例えばもう何ヵ月前でしょうか、福岡の高橋さんのところで次々と自動車事故があった。それが相手の人が必ず言わば人種の違った方だったです。もう不思議でした。
だからもうこれは神様の御都合に違いないと思わない訳にはいかなかったですね。だから向こうから余分なそれこそ理不尽な請求を受けられても、それこそ有難いお取り払いとして払うて行かれたですね。と言う様に信心させて頂いておってですね、例えばそういう恐れるような事があってもその事には、非常に深い細やかな神様の情というか心情がね込められておるのです。絶対に、だからそこんところの眼を以て見ると神様のおかげに違いはないと言う事。
これはいつ頃のことでございましょうか。まだお商売をさせて頂いておる。まだ使用人も何人も居るという時分でしたから、家内子供も大祓にお参りさせて頂いて帰らせて頂きましたら裏の戸が開いている。おかしいなと思って入ってみましたところが、商品がこうして置いてあったのが商品ががっさり無くなっておる。それから次々お店の方が帰ってきたら、あらこれは上着がない、私のズボンがないと言う様になって来た。もう人間の全部が一点づつが盗まれておるという感じでした。
その時家内と二人で、もうこれは間違いなしお取り払いぞというてから又改めて御礼参拝させて頂いた。だから信心しよって参りよって拝みよってそげな事があるのならもう参らん方がよか、言わば触らぬ神に祟りなしと言う様なことを申しますけども、そこのところを大事にして行く事が、そこんところを大事にして行く事によってここにあります、そういう様に神を恐れるとようするに信心にならんと仰せられる。
撫でたり擦ったりされる事だけでお参りをしているのは信心じゃないです。場合によっては拳骨でごつんとやられる事もあるけれども、そこを恐がるような心では信心にならん。神に近寄るようにせよ。そういう時にもうひとつ内懐の中に飛び込んでいくような思いの信心が必要だということがこれはね、信心をさせて頂く進めさして頂く為にはどうしても心得です。心掛けです。
これは大丈夫じゃろうかと、例えば病気なら病気でもそうです。お参りしよって一時かえってひどくなるような事があります。これはお参りしよってひどくなるならばと云うて信心をそこで疎かにする人があります。けれども、神様にお願いをして信心をして変わったことが起ってきたらおかげと思うて信心せよと言った様な御教えがありますでしょう。変わった事が起ってきたらこれは神様の特別の働きを頂いとるんだと、近付くようにすればそこからおかげが受けられて来るんです。
私が今朝から頂いたお夢もそうです。大祓にお参りをしておる、これは熊本と云うことはこれは熊本県と言う事ではないと思う。いわゆるくまのもと、めぐりのもと。そのめぐりの元が焼き払はれたり取り除かれしておるという意味もあると。そしてもう一つ大切な意味があると思ったのは、例えばお祓いを受けるというのがです、私が代表しておかげを受けようという事じゃおかげにならん。
本当に神様を信じとるとはいえません。神様がわかればわかる程、信じられれば信じられる程それこそこの辺の言葉でいうなら「だっこへっこ」であります。抱く子も這う子も皆一家中の者がお祓いを受けさして頂くことがこれは本当に神様を信じた人の姿であります。そうしなければおられんのです。もうはらえつものば祓うてもらうたから、それもおかげ。一人で代表してお参りすると云うこともおかげ。
けれども本当に信心がわかって来たら、神様を信ずる力が先日の秋山さんの言葉じゃないけれど、神様が信じられるようになって来れば来る程、お願いをせなければおられませんというておる。それがね未だ神様をわからない半信半疑でも、いや神様が全然わかっていないでも溺れる者は藁をも掴む心理状態で、神様を拝むと言うと事から信心は大体始められるものです。
藁をも掴むつもりで拝んでおる、参っておると言う事から段々分って来て、成程神様が有難いお方だなぁ又ある場合には、或る意味に於いては神様は怖いお方だなぁとわからせて頂くようになればなる程、近寄らなければおられんである、縋らなければおられんのであると。これは秋山さんの信心の悟りだと思うですね。素晴らしいことだと私は思いました。只頼むときだけ拝むと言った信心とはもう全然内容が違ってくる。
神様が分れば分る迄もう些細なことであろうが難儀な問題であろうが、同じ思いで願わなければおられんのが縋らなければおられんのが神様。それを神様を信じた人の姿であると私は思うのであります。大祓なんかでもそうです。信ずれば信ずる程、今日はお店を休みにしてさあ自動車が十台あるなら十台全部お祓いを受けるぞ、さあ抱っ子も這う子もさあ皆連れて参るぞというところに神様を本当に信じておる。
お祓いと言う事お祓いを受けると言う言をいわば信じとる。祓いの神風という、その神風に浴すると言う言を信じとる。その特別祈念が今日あるというのですから、参らなければおられないと言う事になる。そこで夢の中であぁ一家中でお参りしとったおかげで、おかげ頂いたといっておる人はそういう人ではなかろうかと思う。後の代表で参っておったという人は、さあ後に残っておったものはどう言う事になっておろうかという心配がありますね。それを心配とも感じん。
有難いとも感じんと言う事は、神様をそれ程にしかわかっていないことになるわけです。ひとつ本当に信心がわかる、神様をわからせて頂いておかげを頂かしてもらうという、神を恐れるようにすると信心にならぬと教えておられる。けれども矢張りちょっと見た目には恐れなければならないような事があるのです。何故っていうと、どうぞおかげを頂きたい本当におかげを頂きたいと真実神様のおかげを頂かねばと言う事になると、神様が先ずめぐりのお取り払いにかかって下さるからです。
いうならば、億万長者になりたいならば、億万の借金が例えば、あると仮定するならば、その億万の借財は、先ず支払わなければなりませんから、取立にきて下さるわけです神様が。それを信心しょって、どうしてこげな事が起ったじゃろうかと、思うたりすることだけではない。そういう時にこそ、やれ痛や今みかげをである。今こそ神様がお取り払い下さってあるんだとして、私の次々難儀な事を、起ってくるたんびに、神様にいよいよ肉迫していく。
弟の戦死の公報を聞いた直後から私が御本部へ月参りを始めたようにした信心が、神に近寄る信心じゃなかろうかとこう思います。只撫でたり擦ったりする時に近寄っておるのはね、それは本当に近寄ったと言う事になっていない。此処でも皆が申しますがね、もう親先生はどこの席でも煙たがられる。それはまあいうならば恐れとるわけじゃなかろうけれども、先生が居ると堅苦しい。
けどそこをもう一つですね、乗り越えて近付かせて頂くときに言わば本当の先生の姿というものはわかると思うのです。これは形の上でのこと、神様も同じこと。本当に何かがあった、そこを乗り越えて神様の前に額かせてもらう近付かせてもらうと言う事によって、今迄にわからなかった神様の深いお心に触れることが出来る。信心が有難い尊いものになってくるわけであります。
氏子が神と仲良うする信心、神を恐れるようにすると、私はここんところを何故恐れるようにという言葉を使ってあるかと思っておったら矢張り今お話聞いて頂きますように、恐れなければならん事があるからなのです。だからそげな時にえづがってはならんぞというておられる。前からこう教えておられるわけですね。だからそこんところを乗り越えていく信心。そこで始めて信心になると言う事になる。
神に近寄るような信心。神に近寄るようにせよというとられます。いよいよ神様に近付かせて頂いてのおかげ、もう神の息吹をここに感じる程しの実感を持った程しの信心にならして頂きたい。それこそ神の中をわけて通りおるようなものじゃと仰る神様。それこそ朝露の薮の中をこうやってわけて通るようなもの。もう朝露に濡れてしまう。さあさあと音がする。そのくらいに神様を感じれるような信心を頂いたらいよいよ有難いことになって参りましょうね。
どうぞ。